3月30日
土曜日。学校に行かなくてもいいので、長尾先生と相談して好きな時間に起きていいことにする。その結果、午前中は爆睡。わたしたちはホームステイをしていないが、それでも毎日英語にさらされ、英語で判断を迫られ、かなり疲れていたのだということがわかる。こどもたちの疲れたるや、いかばかりのものか、と今さらながらに思う。わたしが『ああ、よく寝た』と思っている今このときも、彼らは孤立無援のまま英語にさらされているわけだ。
昼食後にスーパーで買っておいたアーモンドを食べる。歯のあいだでアーモンドがくにゃりと柔らかくつぶれる。なんとこれはビールのおつまみ用ではなく、クッキーの上に置いて焼いたりする生アーモンドではないか。まずいから捨てようかと思って、ちょっと考えた。毎朝オーブンでまとめてトーストを作っている。オーブンに入れるとパンに焦げ目がつく。ということは水分が抜けていくということだ。アーモンドも水分を抜けばいいのではなかろうか。
どうせなら塩味もほしいから、ボールに少しの水と塩を入れ、その塩水の中にアーモンドを泳がせ、加熱したオーブンに入れる。初めてのことなのでつきっきりでようすを見ると、だんだん水気が抜けてくる。強火にしておいたらそのうち「ぷす」と小さくはじける音がする。成功。オーブンから出して熱をさませば、売っているのよりは焦げた味が強いけれど、塩味もついたおつまみアーモンドのできあがり。
オーブンという器具は結婚後初めてわたしの前に現れた器具で、出現後も自分から進んで使ったことはなかった。だからこの地に来てもおそるおそるトーストを焼くことしか考えつかなかったのだが、初めての実験で考えたとおりのものができたらうれしい。日本にもどったらチキンでも焼いてみようかと考えるくらい、手ごたえがあってうれしい。料理は考えて工夫しながら先に進むものだと再確認。失敗もあるけれど、やればやったなりの手ごたえが返ってくるから好きだ。ほんとうは勉強もそうなのだが、勉強は手ごたえが返ってくるのが遅いから、その前にいやになってしまうことがある。その点、料理は目の前に結果が現れるからよい。
きょうは聖土曜日。イエス・キリストが十字架の上で死んだことを記念するのがきのう。明日はイエスのよみがえりを記念するイースターの日曜日。きょうはふたつの大きなできごとの狭間の一日。空白の一日。イエスはいない。そして復活もまだ起こらない。そのような日をこんなふうに過ごすことができるのもうれしい。
ニュースを見たいと思い、テレビをつけチャンネルを変えていたら、突然バッハの『マタイ受難曲』が響いてきた。演奏者もわからない、演奏している場所もわからないが、どこかの教会の中で演奏している。もう第二部に入っている。ニュースをさがすのはやめて、そのまま聞き入る。
思いがけないプレゼントという感じがする。ほんとうはきのう聞くべき曲なのだが、きのうはこどもたちと海に行ったりしていて、聖金曜日らしい一日を過ごすことはできなかった。だから今日でもいい。さほどおもしろい演奏でもないが、古楽器を使っている。
後半の山場（だとわたしが考えている）、アルト独唱の「憐れみたまえ」に入る。冒頭のヴァイオリン独奏がとてもきれい。自分はどんなことがあってもイエスを見捨てるようなことはしないと誓っていた、弟子のひとりシモン・ペトロという男が、結局はイエスを見捨てて逃げ去る。勇気を振り絞ってイエスが裁判にかけられている家の中庭まで戻ってくるが、そこにいた人々に「あなたはイエスの仲間ではないか」と問われ、「イエスなどという男は知らない」と三回言ってしまう。そして自分が何を言ってしまったか気づいて激しく泣いた、という説明のあとに「涙を流す弱いわたしを憐れんで（見捨てないで）ください」という美しい歌がはじまる。
今までわたしは泣き崩れるペトロの場面とそれに続く「憐れみたまえ」をひとつのセットとして聞いていた。ドイツ語での演奏に英語の字幕が入るのだが、それを見ながら聞いていたら、ペトロの行いを説明する福音史家の言葉と、それに続く「憐れみたまえ」だけでなく、そのあとに続く「わたしは罪に染まった者だが、神のもとにもどろう」という合唱まででひとつのセットになっていると気づかされる。CDで聞いているとつい旋律中心の聴き方になり、歌詞の意味をとばしがちになるから、字幕つきというのはありがたい。 しかしその一方でこの国は、外国のニュース番組（イタリアやドイツなど）を字幕なしで流しつづけるなどということもする。いったいだれが見ているのだろう、あのニュース番組は。明日の夜はメサイヤを放映するという。これもなかなかいい。わたしの好きなマグダレナ・コジェナーが歌い、その他映像がどうとか言っているが聞き取れない。聞き取れないことは無理して聞こうとしなくていい。マグダレナ・コジェナーが聞ければそれでいい。
演奏後のタイトル・クレジットで、会場となっていた教会がライプツィヒの聖トマス教会であることを知る。作曲者バッハがマタイ受難曲を初演した教会だ。これはなかなか粋なコンサートを放映してくれたものだ。イエス・キリストの十字架について、聖土曜日にゆっくりと考える時間が与えられてうれしかった。
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