ここ何年か頭のどこかでいつも考えていることがあります。それは何であるかというと、クリスマスをめぐってマリアの上に降りかかる災難を、いったいどう理解すればいいのかということです。たとえばルカによる福音書に
「宿屋には、彼らの泊まる場所がなかったからである。」（2:7）
という言葉が出てまいります。マリアとヨセフの旅を象徴する言葉がこれだとわたしは考えています。マリアという人はクリスマスの夜に生まれるイエスさまのおかあさん。そしてヨセフはその婚約者。まだ二人は結婚しておりません。それなのにマリアは妊娠していました。今ではこのような状況はあたりまえになりつつありますが、この当時は厳格な規則がありました。さらに婚約者であるヨセフにとって、この妊娠は自分のかかわりのないところで起こったことでした。マリアは当時の規則に照らせば死刑になっても仕方のない状況だったのです。しかしヨセフが「神の力によって身ごもった」というマリアの説明を受け入れてくれたことによってマリアは死刑に処されるべきところをかろうじて免れたのです。マリアが神に用いられるというできごとはすばらしいことと受け止められるのがふつうですが、マリアにとっては命がけのことでした。
二人が旅立つ前に、すでにこれだけのことが起こっています。さらに、税を取り立てるための人口調査が行われることになり、時の支配者ローマ帝国の命令によって、二人はヨセフの故郷であるベツレヘムという村に旅立つことを余儀なくされました。帝国からの命令でしたから延期することも断ることもできません。こうしてローマの植民地だったユダヤ全土の住民が一斉に旅立つことになったのです。これが｢どこの宿屋もいっぱいだった｣ことの伏線になるわけです。
もうすぐ赤ちゃんが生まれるという時になって、旅に出ざるを得なかったマリアにとって、何日も続けて旅をすることもとても危険なことだったのですが、行く先々でその日の宿があるかどうかということも死活問題でした。ようやくベツレヘムの村にたどり着いたそのときに、宿がないという問題に直面することになってしまった二人でした。二人に残された選択肢は野宿しかありませんでした。しかし今の状態で野宿をし、そこで赤ちゃんが生まれることになったら、母子ともに命の危機にさらされる可能性があります。そのことを見て取った宿屋側からの寛大な提案として、家畜小屋でよければ泊まりなさい、という勧めを受けます。二人はそれに従うほかありませんでした。男性であるヨセフにとってはありがたい提案だったと思います。雨露はしのげるし、何よりもあたたかい。しかしマリアにとっては、初めての出産を衛生的とは言い難い場所で行うしかないわけで、野宿よりはいいけれど、まだまだ安心にはほど遠い状況でした。
このマリアの旅路を見るときに、神に選ばれ、神のみこころに従うということは、自分の人生を危険にさらすことになるということがわかります。人間的な視点からすると、いいことなど何も与えられないわけです。マリアの息子であるイエスさまが長じて十字架の上で死んでいくというできごとも、同じことを表しているでしょう。神のみこころに従う道の途上で、選ぶことのできる選択肢は少なく、苦しいものばかりで、なぜ自分が神のために選ばれてしまったのかと首を傾げたくなることばかりの人生です。神に選ばれるということは、人間的に考えれば名誉なことでも何でもありません。逆に生きるか死ぬかという瀬戸際まで追いつめられるようなことでありました。旧約聖書に出てくる預言者の生き方にも共通するところがあると思います。
たとえば預言者エレミヤという人は、預言者として働くようにという神からの命令に、「わたしは語る言葉を知らない若者に過ぎません」と語り、それを断ろうとします。しかし「わたしが共にいて、必ず救い出す」という神の、この世的に考えれば何の根拠もない言葉を支えとして、神の言葉を人々に伝える預言者としての活動を始めます。
預言者としてのエレミヤの活動は困難を極めました。「ユダ王国が滅び、ユダの人々は捕囚として外国に連れ去られる」という預言に対する反発は大きく、彼は逮捕、拘留され、死刑判決を受けることもありました。さらにユダの国を愛しながらその滅びを預言しなければならないエレミヤでしたから、その胸中の葛藤は計り知れないものがあったはずです。そして彼は自分の預言したとおりに自分の国が滅びて行くのを目の当たりにしなければなりませんでした。しかし「これで終わりではない。捕囚の地から必ず帰還できる時が来る」という彼の預言は人々に希望を与えるものとなりました。このエレミヤの人生も、人間的な目から見れば彼自身には何ひとつとして益となるものはない人生だったということができるでしょう。
マリアの話にもどりましょう。マリアにとっての苦難は、ベツレヘムの村での出産で終わることはありませんでした。行きは身重のからだでしたが、今度は乳飲み子の命と出産間もない自分の命とを守りながら、帰りの道中を辿らなければなりません。途中で多くの人たちに支えられながらの旅だったと思います。ベツレヘムの宿屋が家畜小屋を提供してくれたように、赤ちゃんのぬくもりを守ろうという多くの人の熱意に支えられて、何とか生き延びることができたイエスさまの命だったと思います。
11月半ばの福音書に出て来た言葉が思い起こされてまいります。マルコによる福音書第13章が「終末、すなわちこの世の終わり」について語った言葉です。そこにはこうありました。
「それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。このことが冬に起こらないように、祈りなさい」（マルコ13:17-18）
もっとも重い苦難を担わねばならない代表が「身重の女」と「乳飲み子を持つ女」でありました。そして最も過酷な季節が「冬」であります。この三つすべてを経験してしまったのがマリアであったということができます。神に選ばれ、神の器として用いられることは、信仰的な視点からすれば「すばらしいこと」であるかもしれません。しかし人間的な視点からするとそれは「最低の人生」としか映らないのです。マリアはあえて困難な道を選び取りました。「わたしのようなものをお選びくださってありがとうございます。あなたのお考えになる道をわたしは歩みます」と語り、その言葉通りに生きて行くマリアでした。
このクリスマスの物語が示すことは、神はわたしたちの苦難がわからない方ではないということです。そしてまた神はわたしたちの苦難に無関係な方でもないということです。神はわたしたちの悩み苦しむ姿をつぶさにご覧になり、その悩み苦しみにかかわるためにイエスさまを、ご自分の代りにわたしたちのこの世界に派遣してくださったのです。それがクリスマスの夜に起こったできごとでした。しかし神の恵みがわたしたちのところに届くためには、だれかが苦難の道を歩まなければならない。それがクリスマスの物語から響いてくることです。
今も人間の苦難は終わることなく続いています。どんなに科学技術が進んだとしても、人間にとっての苦しみは変わることなくつきまといます。今日泊まる場所がない、今食べる物がない人たちがたくさんいます。たとえばシリアという国があります。何年も続く内戦状態を逃れて難民となった人たちが、自分たちの意志に基づく旅ではなくマリアたちのように、追われるようにヨーロッパを目指して旅立っています。この寒い冬の時期に、着るものにも食べるものにも事欠く人々が大勢いるのです。たとえヨーロッパにたどり着くことができたとしてもそれで終わりではありません。難民の中にテロリストが紛れ込んでいるかもしれないと疑いの目を向けられたり、たどり着いた安住の地でも社会の最底辺に置かれ、謂れのない差別を受けるのです。
神は力を奪われ、小さくされた人たちの側に立つ方だということが、クリスマスの物語が、そして聖書がわたしたちに教えてくれることです。神は強く安定した者の側に立つのではなく、「宿屋に泊る場所もない」苦難にあえぐ人々の側に立つ方なのです。
「日本の社会」「家族」「職場」「学校」など、わたしたちが身を置く場はいくつも存在します。その中でわたしたちは、ある時は力を持つ側、ある時は力を奪われる側と立場を変えることになるでしょう。
などと相対化をはじめると、聖書がわたしたちに向けて発するメッセージを受け止め損なうおそれがあります。マリアやイエス、預言者たちが受けた苦難の意味が損なわれ、彼らの存在は「すばらしい」のひとことにすり替えられてしまう恐れがあります。わたしたちはほとんどの場合、強い側に身を置く者であるという自覚を持ち、そのわたしたちが何をすることを神が望んでおられるのかを考え続けたいと思います。