あれまあ

フランシス秋葉晴彦
1月13日のことでした。新年明けましてまだ間もないというのに仕事はフル稼働だなという感慨を覚えつつ、いつものように午前中の仕事を終え、昼食のために家にもどろうと、車を止めてあるところまで行きました。

向こうから新生会の事務所の方が三人歩いてくるのに行きあいました。はじめの方に「どうも」とあいさつをしようとしたのですが、わたしの口からは声が出ません。「どうも」の「も」のあたりでやっと声が出てきたのですが、それはわたしが出したい音ではありません。二人目の方から「車かわったんですね」と言われ答えようとしたのですが、頭の中に浮かんだ返事の通り口が動きません。やはり思っていたところで声が出ず、思ってもいなかったところで思ってもいなかった音が出てしまいます。動転してしまい、三人目の方とは目をぱちくりさせ首を縦にふってあいさつすることしかできませんでした。

車に乗り家に向かいながら、「舌がもつれて話すことができません」と今の状況を自らに語ろうとするのですが、思う通りの音が出てきません。手は動いているか、目は正しく物を見ているか、と不安になりますが、運転はなめらかにこなしているようで、発声だけがぎくしゃくします。何度も同じ言葉をくりかえすうちに、だんだん人間の言葉らしくなってきました。しかしかなり集中しないと発語をコントロールすることができません。

家にもどり家族に症状を訴えるころには、かなりなめらかに話すことができるようになっていました。時間にして五分くらいの間のできごとでしょうか。けれども家族に言わせると「まだ少し変な感じがする」ということです。昼食のためにラーメンが準備されていました。それを見たらおなかが空き、「病院に行ったほうがいいのではないか」と問う家族に、「まずラーメン食べたい」と話すわたしでした。「喉元過ぎれば」と言いますがほんとうにその言葉のとおり、一応話せるようになったからとちょっと安心していました。

のんきにラーメンをすすりながら、脳梗塞にでもなったかなと考えていました。一時的に声が出なくなり調べたら軽い脳梗塞を起こしていたという友人がいましたので、そんなことかと思ったのです。懸命に話そうと努力しないと言葉がかたちにならないもどかしさは食事が終わってもありましたので、病院に問い合わせてみようということになりました。

山を降りたところにある脳外科に電話したところ、その日の午後は手術があるため休診になっていると言われてしまいました。残念、ラーメンなんか食べているからです。けれども症状を聞いた病院側で手術の前にみましょうと決めてくださり、ありがたいとあわてて山を降りたのでした。

病院に着くとすぐにCTを撮りました。狭い筒の中に頭を入れていたら途中で「造影剤を入れます」と言われました。はじめから入れるべきところを忘れたのかなと思いましたが、そうではないとあとでわかりました。造影剤を入れるとからだが熱くなると言われましたが、たしかに、ちりちりとするような温かさが血流に乗ってからだ中に広がり、それはそれでおもしろい体感でした。

手術を控えた院長先生の前に通されました。先生の手元にはカルテがあり、そこにある頭部の断面時と思しきところに赤鉛筆でぐりぐりとしるしが書き込まれています。『だれのカルテかな』と思っていたらわたしのものでした。先生はすぐにCTとレントゲンの写真を見せてくれました。造影剤を入れて撮影したわたしの頭の輪切りの写真に、くっきりと白い異物が写っていました。「のうしゅようです」と言われました。あれまあ。言われた言葉を頭の中で漢字に変換してみると、「脳腫瘍」、なにやら毒々しい字が現れました。自分はガンの告知を受けているのだ、とわかりましたがなんだか実感はわかないものです。それほど唐突に、わたしはガンと向き合うことになりました。

そこまでが悪いしらせ、そのあとよいしらせが続きました。腫瘍の種類が髄膜腫というものであること。家にもどって調べたら、髄膜腫は九割以上が良性であるとのことでした。画像がくっきりと写っていることも良性をうかがわせるとのこと。さらに場所的な幸運もあり、頭部左上方の頭蓋骨のすぐ下にあるから簡単に取れること。もちろん放置すれば徐々に大きくなるということですから、良性であれ脳内に圧力をかけることになり、よくありません。どうしますかと問われれば、取っていただくしかないでしょう。あっという間に摘出手術を受ける方向ではなしが進みました。

かつてわが妻が「膝に腫瘍があります。すぐ入院してください。取ってみないと悪性か良性かわかりません」と言われ、手術してみて初めて良性であることがわかったというできごとがありました。そのときに、いろいろ考えてしまい心配でたまらなかったことを思い出します。今回はわが身に降りかかったことでもあり、また場所が場所ですからさぞや心配になるのかなと思いきや、さにあらず。今も毎日よく食べてよく寝ています。

われながら意外な安定感があります。信仰のなせるわざか?そういうこともあるかもしれません。しかし「おそらくは良性」と言われたことが大きいのだろうと思います。信じるということはわたしの人生をかたち作る大きな要素となっています。わからないことはわからないままで心配せずに信じるということを続けよということなのでしょう。頭蓋骨に穴が開く、と想像すれば『痛いかな』とは思いますが、それくらいのことです。

今すぐ入院して手術という状態でもなく、術前は絶対安静というわけでもありません。それよりも何よりも、この何年か感じてきたからだの不具合(言葉が出にくい、楽譜を読み違える、よろける等多数)が改善される可能性があるのであれば、明日にでも手術を受けますという気分です。手術しても改善されなかったら笑ってしまいますが。

みなさんにはご心配とご迷惑をおかけすることになりますが、本人がこの通りあまり心配しておりませんので、あまりご心配いただきませんようにお願いいたします。ただ、お祈りはしていただけると心強く思いますので、よろしくお願いいたします。(2010年1月26日)
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