父の思い出

父の思い出

フランシス秋葉晴彦

今月の「婦人会だより」を読んでいたら、わたしも父の思い出を書きたくなりました。などと書くと、『えっ、秋葉司祭のおとうさまは亡くなっていたの？』と驚く方もあるかと思います。実の父についてはほとんど語ることもありませんから、驚く方も少ないのかもしれませんが、実父は元気です。

わたしが書こうと思い立ったのは、結婚によって与えられた父のことです。今でこそなつかしく思い出すのですが、結婚する前、この人はわたしの強敵でした。夕方か夜、一日の仕事を終えてからデートという時に、わたしは免許取り立てのあやしい運転で彼女の家の近くに行きました（『彼女』などと書くとわれながら胸ときめくのですが、今は昔、です。みなさんよくご存じの、わたしが毎日泣かされているあの人のことです）。

彼女の家の近くにファミリーレストランがあり、そこで話し込むのが常でした。先方は自転車でえっちらおっちら坂を登ってやってくるのでした。先に約束をとりつけるのですが、こちらも当時は会いたくて会いたくてしかたがない時代でしたので、約束する前にレストランにたどり着いてしまい、そこから電話をすることもありました。そんなときに父が電話口に出ると、さあたいへん。「娘はおりません」そして「ガチャン！」と電話が切れ、わたしはすごすごと家に戻るのでした。あとで聞いてみると「わたしあのとき家にいたのに！」という結果になります。当時父は病気療養中で家にいることが多く、この「ガチャン！」を何回経験したことでしょうか。

そんな父に結婚のお許しをいただく日がやってきました。わたしはすでに牧師として働いておりましたので、人に何かを話すことに抵抗感はありませんでした。しかしこのときは、そうは行きませんでした。彼女の家におじゃますると、居間に通されました。わが交渉相手はテレビの前に陣取っています。わたしも横に座り、話を切り出す機会をうかがいました。しかし与えられないのです、この機会が。相撲の話が一段落しそうだと見てこちらが深呼吸するわずかな隙に、話題が突然文学に変わります。ひとしきり文学談義に花が咲き、そろそろとこちらが身構えるゆとりもあらばこそ、先方は次の話題にひらりと飛び移り、滔滔と語りつづけます。まるでこちらに語る機会を与えまいとしているかのようでした。どのくらいの時が過ぎたでしょうか。きっかけをつかめないままこちらの頭がじんじんとしびれ、唇も渇きはじめたころに突然、「いや、お話は娘からうかがってますから」と父に言われてしまい、あれれ、なんだか変だなあと思い、「いや、おとうさん、わたしに言わせてください」などと口走っていたことを思い出します。あのとき心臓が口から飛び出しそうな私だったのですが、父も父で相当照れくさかったのだろう、と思います。

結婚後まもなく、からだに変調がみつかり、母が入院することになりました。家族でいっしょに、あるいはそれぞれに、病院にお見舞いに行きました。あるとき、病院からの帰り道に父とわたしだけという組み合わせになりました。駅に向かって歩きながら、母の病状のことだけでなく、いろいろなことを話しました。

駅前に回転寿司屋がありました。「秋葉君、食べていかないか」と誘われ、わたしは喜んでごいっしょしました。しかし、です。いざ席に座ってみると、何を話したらいいのやら、妙な緊張がわたしの中に生まれます。共通の心配である母のことについては、今までの道のりでだいたいのことは話しています。歩いていると何となく口にのぼっていた話題が、ゆったりと腰を据えてしまうとあまり浮かんできません。まあ、いいか、とわたしは目の前を流れる皿をながめ、好きなものを取っては口に運びました。

気がついてみればわたしはかなりの皿を積み上げていました。食事に制限を受けていた父は、食べることが許されているものを、少しずつ口に運んでいました。大のおとなが何も話さず黙々とそれぞれの皿をかたづけているというのは、傍から見ればかなり不器用な雰囲気を漂わせていたのではないか、とも思います。けれどもそこに流れていた時間は、わたしには心地よいものでした。「今日は秋葉君と寿司を食べて、とても楽しかった」と娘に電話で話していた、とあとで聞きました。

わたしたちの祈りもむなしく母が天に召されました。わたしたちは父のことを心配しました。長く透析を受けていた父は、食事に厳しい制限があり、それをひとりで管理するのはたいへんだから、一緒に住んでくださいとお願いをしました。しかし返ってきたのは、母との思い出が残るこの家を離れるわけにはいかない、という返事でした。

教会の秋のバザーを終え、教会の人たちとやれやれと休んでいるときに父から変調の連絡があり、あわてて家に駆けつけたときには、父は救急車で病院に運ばれたあとでした。病院で医師に告げられたことは、からだの内部のどこかで出血していること、しかしそれを止めるための手術は、長く透析を受けていたことから無理である、ということでした。痛みを和らげてもらうことが、わたしたちにできるお願いのすべてでした。

出血の影響は確実にからだに及んでいました。刻一刻と弱っていく父の傍らで、わたしたちにできることは何もありませんでした。ひとつだけできることがありました。それは父の話を聞くことでした。痛み止めの影響もあってか、夢とうつつのあいだを行ったり来たりする父は、「秋葉君、一緒に浅草に行こう」とベッドに横たわったままわたしを誘いました。「いいですね、行きましょう」とお供しました。仲見世を冷やかし、浅草寺も見て、わたしたちはぶらぶらと練り歩きました。家の近くの駅まで電車で戻り、駅を出たところで、中華を食べようということになり、家にもどるまえに中華料理に舌鼓を打ちました。「秋葉君、楽しかったよ、ありがとう」と言われ、「いえ、こちらこそ」と答えて浅草見物は終わりました。

そのあとは意識が混濁し、あまり多くを話すことができなくなり、深夜に父は天に召されました。最後の夜に、夢の中で一緒にでかけた浅草のことが、父のあたたかい思い出として今もわたしの中に残っています。
（2008年1月）

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